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七夕トランジション

最終更新: 2019年1月4日



たなばたセレモニー

牽牛と織女の逢瀬に思いを馳せる


七夕は、前夜から翌朝にかけての


おまつりです。

子供の頃から慣れ親しんだ風物は、

暮らしに彩りを添える四季折々の年


中行事で、海の向こうから渡来した


習俗を生かし日本独自の美意識を施


して風土に根付いた祀りごとです。

日本人は流星の瞬きにも永遠を見出


す豊かな感受性を持ち合わせていま


す。時折の楽しいセレモニーは日常


の隙間に歓喜を招いて暮らしに潤い


を与えます。

橋本花乃 七夕 昭和五〜六年

今宵は誰もの心に懐かしく偲ばれ、

水に所縁の深い七夕のルーツを眺め


たく、これから皆様をお誘いして、

遊覧船の舵を取ろうと思います。

天の川 楫の音聞こゆ 彦星と

織女(たなばたつめ)と

今夜逢ふらしも  

      柿本人麻呂 万葉集

この日、女たちは織女にあやかり、

針糸や着物の雛型をかざして裁縫の


上達を祈願しました。

書や琴や琵琶など技芸の上達も願い


ました。これを乞巧奠(きこうでん)


といいます。乞巧奠とは技巧を乞う


奠(=祭り)です。

家族の衣服を整えるのは女の重要な


仕事で裁縫のできばえは嫁の評価に


直接繋がりました。七夕のほかにも


正月には仕事始めの一つとして


縫初(ぬいぞめ)や初針がありますが

二月と一二月の八日には針供養が行


われるなど裁縫をめぐる行事や風習


があると聞いています。

私は今でも和洋裁を針一本で仕立て


ているので、この点では合格のはず


ですが未だに貰い手のない出戻りで


老いた母を安心させられない親不幸


者・・・です。


七夕になるまでのトランジション

『淮南子』(えなんじ)

紀元前2世紀頃に成立 

編纂

劉安(学者 前漢初代皇帝の孫)

填河成織女

カササギが河を埋めて橋となり、

織女を渡しました。

『西都賦』(りょうとふ) 

1世紀頃に成立 

作者 班固(歴史家,文学者)

牽牛而右織女、似雲漢之無涯

牽牛は左 織女は右 それは天の川の

果てしない端々にいるかのようです


『曹植九詠注』

(そうしょくきゅうえいちゅう)

2~1世紀に成立 

作者 曹植(詩人 曹操の正嫡)

牽牛為夫、織女為婦

織女、牽牛之星、各處河鼓之旁

七月七日、乃得一會

牽牛は夫となり、織女は夫人となる

織女、牽牛の星は、

各々が天の川のかたわらにいる

七月七日、すなわち一度会うを得る

『西京雑記』(せいけいざっき) 

3~4世紀頃に成立 

作者不明 葛洪(道教研究家 著述家)

七月七日に七針に糸を通す

風習が記されています。

西京=長安 前漢の逸話を集めた


『小説』

5~6世紀に成立

作者 殷芸(官僚)

河東に住む天帝の娘である織女(織姫)年々に機(はた)を動かす

労役につき、雲錦の天衣を織り、

容貌を整える暇なし。

天帝その独居を憐れみ、

河西の牽牛郎(牛飼い 彦星)に

嫁すことを許す。

嫁してのち機織りを廃すれば、

天帝怒りて河東に帰る命をくだし

一年一度、会うことを許す。

と記されています。

『古詩十九首』

6世紀に成立 

作者 不明 

『文選(もんぜん)』に収集

編纂 昭明太子

遥かに遠く隔てる牽牛星、

白く輝く織姫星

か細い手でトントンと機の杼を操る

けれど一日織っても綾を成さない

涙ばかりが雨のようにこぼれる

天の川は清らかで浅い

距離にしてどれ程になるのだろう

満ちて流れる一筋の川を挟み、

語り合えぬ日々が続く


『荊楚歳時記』(けいそさいじき) 

6世紀半頃に成立 

作者 宗懍(南北朝時代の名士)

乞巧奠と織女・牽牛伝説が

関連づけて記されています。

七月七日の夕刻に二星への捧げ物を

庭に並べ、夜に婦人たちは七本の針

の穴に美しい色の糸を通して、針仕

事の上達を祈りました。お供え物の

瓜の上に蜘蛛が巣を張れば願い事が

叶うという言い伝えも

記述されています。

荊楚地方(長江中流域)の年中行事

『長恨歌』(ちょうごんか) 

806年の作品 

作者 白居易(詩人)

天に在りて願わくは

比翼の鳥をなさむ

地に在りて願わくは

連理の枝とならむ

比翼の鳥

胴体が半分半分で繋がって

一羽になっている鳥

常に不離一体であることの比喩

連理の枝

二種の木が交わり一方が枯れれば

もう一方も枯れる 異種同体の例え

二人だけの七月七日の夜に華清宮

の長生殿で誓い合った愛の言葉。

『長恨歌』は玄宗皇帝(武則天の孫)

の寵愛が偏狂すぎたため命を断たさ

れた楊貴妃を歌い上げた長編の漢詩

で、平安朝文学に多大な影響を与え

ました。

能の演目『楊貴妃』ではワキは方術

を使う道士ですが、史実上でも玄宗

と楊貴妃、白居易は道教を重んじた

強固な関係にありました。


玄宗皇帝が751年、灑山(りざん)

温泉地で楊貴妃が湯浴みしたことで

有名な華清宮へ楊貴妃と遊宴して催

した乞巧奠が七夕祭りのはじまりと

もいわれていますが確かなことは分

かりません。

冷泉家の乞巧奠

乞巧奠が日本に伝わったのは、持統


天皇の飛鳥時代か奈良時代とされて


います。宮中や貴族の間で流行し、

民間にも広まっていきました。

それでは有職故実を伝承する冷泉家


の乞巧奠の宴をのぞいて見ることに


しましょう。


星の座 のしつらえ

藤原為家(藤原定家の子)の晩年の子

冷泉為相(れいぜいためすけ)を祖と


する歌道の冷泉家が、現代に伝える


エレガントな乞巧奠では、二星への


手向けの蹴鞠にはじまり厳かな雅楽


の演奏と続いて、和歌を詠う披講が


奉納されます。

最後は「流れの座」で天の川に見立


てた白い布をはさんで向かい合った


男女が、恋の歌を即興でとり交わし


ます。夜明けまで続くこの歌会では

途中で流れ星のように消えていく人


がいるのでそう呼ばれるそうです。

水を張った角盥(つのだらい)に梶の


葉にしたためた和歌を浮かべ、その


水に夜空の二星を映して愛でます。

角盥に浮かぶ梶の葉

芋の葉に宿った朝露で墨を擦る

短冊が使われる以前は梶の葉が用いられていた

七夕に梶の葉に和歌を認める習わし

は、『平家物語』「祇王」の段にも

記されています。

『平家物語絵本』「祇王」 明星大学蔵


かくて春過ぎ夏たけぬ

秋の初風吹きぬれば、

星合の空をながめつつ、

天のとわたる梶の葉に、


思ふ事書く頃なれや

奈良時代の最盛期、聖武天皇の天平


年間からは七夕の節供と相撲節会は


融合し、七月七日に一緒に行われる


ようになりました。

こうしたハレの日は索餅(さくべい)


を食べたそうです。これは、中国の


故事に倣った慣習で、詳細は分かり


ませんが、索餅は小麦粉と米粉に水


と塩を加えて練った綱状の乾物で現


在も神社の供物に用いるそうです。

茹でたり揚げたりして食べます。

『正倉院文書』には平城京の索餅の

取引きの記録が残っていて米の端境


期(はざかいき)を乗り切る夏の保存


食として尊ばれた季節商品でした。

江戸時代からは一般には素麺に代替


えされたようです。

索餅


七夕は、美人画の装いの裾模様にも


見られるように、もとは陰暦の七月


七日でした。夏の終わりにあたり、

立秋も過ぎた初秋の行事でした。


鏑木清方 七夕 昭和四年 六曲一双

一年に 一夜と思へど七夕の 

逢ひ見む秋の かぎりなきかな  

     紀貫之 和漢朗詠集


陰暦ですと上弦の月。月が船となり

天の川を渡ることが適います。

水の女


我がためと

たなばたつめのその屋戸に

織る白たえは 織りてけむかも 

      柿本人麻呂 万葉集

最後に国文学者で民俗学者で歌人の

折口信夫の『水の女』を参考にして

七夕の成立を習いましょう。


日本の七夕は、中国から伝わった

牽牛織女伝説と乞巧奠の習俗に既に

あった棚機つ女(たなばたつめ)の風


習が混合したものと考えられます。

「棚機つ女」というのは村や町から


一人選ばれる穢れを知らない


乙女(巫女 采女)のことです。

選ばれた乙女は水辺の機屋に入り、


機を織りながら客神(まろうど)の訪


れを待ちます。棚に置かれた織り上


がった神聖な織物は、客神が着る衣


です。その夜、乙女は神の妻となり

身籠もって乙女自身も神になる、と

するこの儀礼は村に豊穣を約束する


ものでした。

本居宣長は『古事記伝』に棚のよう


な構造の機織り機なので 棚機という


と記しています。

牽牛織女の伝説と、男神を待つ棚機


つ女の物語は、とても似ていますし


水辺で祭祀を行い厄災を払うという


慣わしも精霊棚を作って先祖を供養


した中国の五節供に因む


七夕(しちせき)によく似ています。

祭りが終わると客神の依代となった

笹竹や飾り物、お供えを川や海に流


して、罪や穢れを祓う七夕送りなど

七夕は水と関係の深い行事です。

こうした話が習合し、「七夕」は


「たなばた」と呼ばれるようになっ

たともいわれています。


日本のたなばた

『古事記』「葦原中国平定」にも

「たなばた」の文字が見えます。

これは、矢に射られて死んだ

天稚彦(アメワカヒコ)の妻・

下照姫(シタテルヒメ)が詠んだ

夷振り(ひなぶり)といわれる形式の

詩歌です。


阿米那流夜 淤登多那婆多

あめなるや おとたなばた


宇那賀世流 多麻能美須麻流

うながせる たまのみすまる


美須麻流邇 阿那陀麻波夜

みすまるに あなたまはや

美多邇 布多和多良須 

みたに ふたわたらす

阿治志貴多迦 比古泥能迦微曾也

あぢしきたか ひこねのかみぞや 


【現代語訳】

高天原の若いたなばたつめ(織姫)が

首にかける玉の首飾り、その穴玉の


ように光っているのは、二つの谷に


渡って照り輝くアヂシキタカヒコネ


の神ぞや

天稚彦(アメワカヒコ 天若日子)は、

天孫降臨に先立って平定のため葦原


の中つ国に降ったのですが大国主神


の娘・下照姫を妻にして復命せず、

詰問の使者の雉(きじ)を射殺し、

高皇産霊神(タカミムスヒノカミ)に

矢を射返され、死んでしまいます。

妻の下照姫の泣き声が天まで届き、

天稚彦の父は下界に降りて葬儀の為


の喪屋を建て、八日八夜の

殯(もがり)をしました。

下照姫の兄アヂシキタカヒコネも弔


いに訪れますが、天稚彦に大変よく


似ていたため、父は天稚彦は生きて


いたと抱きついたのです。すると、


アヂシキタカヒコネは、穢らわしい


死人と見間違えるなと怒り、神度剣


(かむどのつるぎ)を抜いて喪屋を切

り倒し蹴り飛ばしてしまいました。

そのとき下照姫は歌を詠んで自分の


兄アヂシキタカヒコネの素性を明か


したのです。

天稚彦というキャラクターはいつの


時代も貴公子として描かれました。

『天稚彦草子』は御伽草子に収めら


れている物語で、内容は七夕物語と


もいえますが、彦星に相当する男が


天稚彦で、蛇の姿をして水中から娘


の前に現れます。織姫に相当する女


は、長者の末娘となっています。

物語の途中、天稚彦は自分の頭を切


るように言い、言われた通り末娘が


爪切りで蛇の頭を切ると蛇は美しい


男の姿になり、自分は天稚彦である


と名乗ります。


末娘は植物を育てその蔓を頼りに、

一人で帰ってしまった天稚彦のいる

天を目指します。

不二三十六景 大江戸市中七夕祭 歌川広重(初代)

名所江戸百景 市中繁栄七夕祭 歌川広重(初代)

竹久夢二 七夕 

それでは


ロマンチックな七夕の夜明けを

お迎えください。

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