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雛祭りと雛人形

最終更新: 2019年1月2日



箱をでる 顔忘れめや 雛二対

          蕪村

この歌とは違い私の雛人形は居間の


コレクションボードに一年中並んで


置かれています。

灯りをつけましょ雪洞に 

お花をあげましょ桃の花・・・ 

こちらのサトウハチローの詞は旋律


があるので、日本の女子には馴染み


の深い歌になっています。

芥川龍之介の作品に、横浜の斜陽と


なった家で雛人形をアメリカ人に売


る日取りが決まったことからはじま


る或る老女の話『雛』があります。

大正十二年の著作ですが物語の設定


は11月頃と文中に書かれています。

年号は明治で、五年と察します。

明治五年は十二月一日と二日で終わ


り、次の日は新暦で明治六年の一月


一日になりました。

明治五年十一月九日に太政官布告が


下り、明治五年十二月三日を以て、


明治六年一月一日とする旨の太陽暦


(グレゴリオ暦)への改暦の詔書があっ


たのです。

江戸幕府が決めた祝日に五節句があ


りますが、明治六年(1873年)に突然


廃止され、神武天皇即位日


(一月二十九日)と天長節(天皇誕生日)


が新設されました。

五節句は


人日(一月七日)


上巳(三月三日)

端午(五月五日)


七夕(七月七日)

重陽(九月九日)



古来、中国では月の数と日の数とを


重ねた重日を大切な節句としていた


のが日本と朝鮮に流入したのです。

節句は中国の陰陽五行説に由来し、

日本の暦における伝統的な年中行事


で、季節の節目となる日です。

節供(節句 せっく)、古くは


節日(せちにち)ともいわれ、日本


の文化や風習へと定着しました。

雛祭りは桃の節句ともいわれます。

太陰暦では四月の初めです。

明治は欧米化の始まった時代ですが


それ以来、日本式と欧米式が融合し


て今日の日本が形成されてきたので


すが、芥川の『雛』はそうした変転


する新時代への突入をいち早く捉え


た作品です。

さて、公家や武家の雅な遊びから

江戸の町民文化に溶け込んだ雛祭


りの起源を遡ってみましょう。

手繰れば中国で

上巳(陰暦三月最初の巳の日)に催さ


れた禊の行事が現れ、東晋の時代に

三月三日となりました。

そして四世紀の半ば、曲水の宴に変


化して行きました。

東晋の永和九年(353年)三月三日、王


羲之は名士41人を蘭亭に招いて盃を


水に流し、自分の前に流れてくるま


でに詩を詠む「曲水の宴」を催しま


した。

そのときに作られた詩集の序文の草


稿が『蘭亭序』で28行324字に心が


したためられ、王羲之最高傑作とも


伝えられています。

王羲之は隷書をよくし楷・行・草の


三体を芸術的な書体に完成させ書聖


と称されました。

日本へは奈良時代に伝わり小野道風


や藤原佐理、藤原行成に代表される

平安時代の和様の書の様式・上代様


に影響を与えました。

『蘭亭序』は残念ながら王羲之によ


る真跡は伝存しませんが、拓本や模


本が今に伝えられています。

政治家でもあった書家の王羲之は、


書字に留まらず文才にも秀でた芸術


家でした。

『蘭亭序』は

次のような内容を謳っています。

永和九年三月初め、


癸丑(みずのと・うし)のことです。

会稽山の傍らにある蘭亭に会して筆


会を催し心身を清めました。

大勢の知識人が来てくれました。

若者から年長者まで大勢集ってくれ


ました。神秘的な高く険しいこの地


には、生い茂った林に長く伸びた竹


が豊かです。清流が激しく水しぶき


をあげる景観があり、左右に照り映


えています。その水を引き、盃を流


す曲水を作り、皆はその周りに座し


ました。

管弦の楽団が音楽を奏でる華やかさ


はありませんが、一つの盃を受け、


一つの詩を詠じて奥底の心情すなわ


ち幽情を述べ尽くせば足るではあり


ませんか。

この日、空は朗らかに晴れ渡り空気


は澄み恵みの風が柔らかに吹きまし


た。仰ぎ見ては宇宙の偉大さに観じ


入り、地上を眺めては万物の生命の


息吹を察しました。目の保養をはか


心を開いて想いを馳せ合うその訳は


ここにあるのです。これこそ見聞を


深める楽しみの極みでまことに趣深


いものです。短いこの一生において


ある人は心中に抱く想いを最も大事


として、部屋にこもり友人と語り明


かす人もいれば、またある人は心の


赴くままに、世俗の束縛を払って自


由に放浪して生きる人もいます。生


き方に人それぞれの違いがあり、


静かな事と騒がしい事の違いはあり


ますが、それぞれの境遇を喜びそれ


ぞれの想いに合致するならばそれを


喜び、自分自身が納得するものであ


れば満ち足りて老いていくのにも気


づかないのです。


けれどもその行きつくところに飽き


が生じてくると感情は移ろい、感慨


もそれにつれて移ろうのです。以前


にはあれほど喜んでいたことが上か


ら下に向き直るほどの短い間に、昔


の名残になっていることもありま


す。ましてや人の命は短く、死が定


められているのを思うと尚更です。

昔の人も「生死こそ一生の一大事」


と言っていますが、痛ましいではあ


りませんか。昔の人が何に感情をた


かぶらせていたかをみるたび、割り


符を合わせるように私の想いと一致


して、その文章を読むたびに嘆きい


たまずにいられず、自分の心を諭す


ことができないのです。まことに生


と死を同一視するのも、長寿と若死


にを同じにみるのも大げさなでたら


めというものです。現在を、後世の


人はどのように見るでしょうか。


きっと我々が昔人を思うのと同じで


しょう。悲しいことです。それゆえ


今ここに集う人の名を列記し、その


作品を記録することにしました。時


代は移り変わっても人の想いをおこ


す所以は同じで変わるものではあり


ません。後の世にこの文を見る者も


また、この文に感じる想いは同じは


ずです。


『蘭亭序』は心に沁み入る詩で、作


者が語った通りに今から1700年も前


に生まれた王羲之の心が現在まで永


き時空を超えて生き続けているあか


しです。

さて、話を元に戻しましょう。

曲水の宴が日本に伝わったのは弥生


時代(485年)に天皇が催す宮廷の


儀式として行われたと日本書紀に記


されています。

奈良時代には三月三日に行われるよ


うになりました。

平安時代には公家の間でも行われ、


御所の公式行事の一つとなり和歌を


詠み合って盃を重ねました。

その一方で、平安時代には民間に


形代(かたしろ)といって禊ぎや祓


いに用いる紙の人形を身代わりとし


て水に流す風俗がありましたが、こ


れが流し雛の原型となって始まりま


した。

儀式から離れても『宇津保物語』に


「ひひな遊び」と女子の人形遊びの


ことが記してあります。

室町時代には流し雛ではなく、部屋


に飾る目的の人形が登場しました。

これは雛人形と呼べる人形で天児(あ


まがつ)が男雛、這子(ほうこ)が女雛


に変化したともいわれていますが、

いずれにしても、祓いの役割を担っ


ていたようです。

江戸時代に雛祭りへと変化して今日


に近い形となった興りは徳川秀忠の


娘で後水尾帝の中宮として入内した


た東福門院が1629年に開いた雛の宴


ということのようです。

雛祭りは、子の穢れのない健やかな


心身の保持を願った節句でした。

長くなったので最後に、古人の和歌


で締めくくりたいと思います。

上巳

君をまづ 祝う心のいそがれて 

おのがみの日のはらいをもせず  

     幕朝年中行事歌合い


曲水の宴

漢人も 筏浮かべて 遊ぶてふ

今日そ我が背子 花縵せな

      大伴家持 萬葉集

流し雛

そのときの はらへにすてし人形は 

けふのひ雛をうらやみぬべし  

      上巳興・小澤蘆庵

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