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人日(一月七日)

最終更新: 2019年1月3日


君がため 春の野に出でて

若菜摘む わが衣手に雪は降りつつ  

光孝天皇

人日(じんじつ)


正月 一月七日は人日で五節供の一


つです。でも七草の節句という方が


馴染み深いです。


人日は中国の年中行事が日本に移入


されて始まった古い習わしです。


中国には、元日から六日までの各日


に動物で占い、七日は人で卜占をす


る風習がありました。

元日は鶏、二日は狗(いぬ)、三日は


羊、四日は猪(豚)、五日は牛、六日


は馬で占卜しました。そしてそれぞ


れの日に占う動物の殺生は禁じられ


ていました。


七日の人の卜占の日には、刑罰人へ


の制裁を行わないという決まりもあ


りました。


六朝時代の梁の宗懍(そうりん6世紀)


が荊楚地方の年中行事・風俗習慣を


記録した中国最古の歳時記「荊楚歳


時記」には、人日(人を殺さない日)


である旧暦一月七日に、七種菜羹を


食べ、邪気を祓い無病を祈る 習慣が


記されています。

七種菜羹とは7種類の野菜を入れた

羹(あつもの)のことです。

現在の私たちが正月七日に食べる


のは七草粥ですが、元々は野菜や


羊肉などを入れた熱い汁を羹と言


いました。

人日は霊辰、元七、人勝節とも呼


ばれ五節供の一つになりました。

これが日本に伝わったものと思わ


れます。

平成三十年の一月七日は陰暦では


二月二十二日になります。


供若菜(わかなをくうず)


平安中期の歌人で歌学者の大納言


藤原公任(きんとう.10~11世紀)が


京都の北山に隠居して著した


『北山抄』には、供若菜(わかなを


くうず)といわれる儀礼が、正月


子(ね)の日に執り行われていたこ


とが記されています。


『北山抄』

十巻のうちの部分 藤原公任撰・筆

京都国立博物館蔵 国宝 縦30.3cm

『北山抄(ほくざんしょう)』とは、


朝廷での年中行事や臨時の儀式や作


法などを、多くの典籍を引いて著さ


れた私撰の儀式書で有職故実の重要


な書物です。

ちなみに正月子の日というのは一月


の最初の子の日のことです。

11世紀初期の『源氏物語』の若菜


上巻にも、供若菜の様子が綴られて


います。

「沈の折敷四つして、御若菜さまば


 かり参れり。御土器(かはらけ)く


 だり、若菜の御羹参る。御前には


 沈の懸盤四つ、御坏ども懐かしく


 今めきたるほどにせられたり」

とあるように、素焼きの土器で召し


上がったのは若菜の羹でした。この


時点では粥ではなかったことが分り


ます。

一条兼良の有職故実書『公事根源』


(15世紀)にも、供若菜の記載があり


ます。

「供若菜 上子日 内蔵寮ならびに内


膳司より正月上の子の日是を奉る


也。寛平年中より始れる事にや


延喜十一年、正月七日に後院より


七種の若菜を供ず」

正月最初の子の日に若菜供が催され


たこと。

そして寛平年間の9世紀末の延喜


十一(912)年の正月七日に、七種の


草を供えていたことが伺えます。

また、鴨長明の著といわれる


『四季物語』巻第一の春部にも、


人日の羹は無病息災に効を奏すると


筆記されています。

「七種のみくさ集むること人日菜羹


 を和すれば一歳の病患を逃るると


 申ためし古き文に侍るとかや。此


 事三十余り四柱に当たらせ給ふと


 豊御食炊屋姫(とよみけかしきや


ひめ)の五年に事起こりて都の外の


 七つ野とて七所の野にて、一草ず


 つを分ち採らせ給ふけり云々」

この記述が正しければ、豊御食炊屋


姫は推古天皇のことですので、6世


紀末期の飛鳥時代にすでに始まって


いたことになります。


若菜摘み

春日野の 若菜摘みにや 白妙の

袖ふりはへて 人のゆくらむ

   紀貫之『古今和歌集』

若菜摘みの様子は『枕草子』第三弾


にも描写されています。

「七日、雪間の若菜摘み、青やかに


て、例はさしもさるもの目近から


ぬ所にもて騒ぎたるこそ、をかし


けれ」

正月七日は、雪間から頭をもたげて


いる若菜を摘む。御殿では普段こう


したものを見ることがないので、皆


で騒いでいる様子に赴きがあると、


清少納言の目には映ったようです。


古くから日本には若菜摘みの風習が


あったのです。

7世紀後半以降に編まれた現存する


日本最古の歌集、万葉集の冒頭歌に


も記されています。万葉集は、雄略


天皇の歌ではじまります。

内容は歌垣や妻問いのような求婚歌


です。泊瀬(はつせ)朝倉宮に皇居の


あった雄略天皇の作と伝えられてい


ます。

「籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 


 掘串(ふくし)もよ 


 み掘串(ふくし)持ち この丘に

 菜摘(なつ)ます子 家告(の)らせ 

名告(の)らさね そらみつ 大和の


 国は おしなべて われこそ


 居(を)れ しきなべて われこそ


 座(ま)せ われこそは 告(の)らめ


 家をも名をも」

籠もまぁ、よい籠を持ち、


掘串もまぁ、よい掘串を持って、丘


で若菜を摘んでいる娘よ。あなたの


家をお聞かせください。名もお聞か

せください。いぇ、この大和の国を


支配し治めている私の方から打ち明


けましょう。家をも名をも。

新春と雖も、丘にはまだ雪が舞って


いるのですが、若菜は果敢に地中よ


り萌芽します。発芽は何かが起こる


兆しを含んだ植物自体の行為ですが


それはある事象を起こさせ、成立へ


と導く気配であり、古人は若菜摘み


を縁起の良い吉事として根付かせま


した。

それは芽吹く活力を摘み供え、体内


に摂り込むことで、若菜の内発する


力で、即ち自然界から新たな力を与


ることができるとする行事でした。

これはいわゆる魂振り(タマフリ)で


弱っている魂をゆさぶり、活力を呼


び戻し再生する儀式です。

春のはじめに、天つ神の御子である


天皇は、聖なる山に降臨して国見を


するのです。丘に降り立ち、自分が


支配する国を見渡して管理するので


す。この神の領域となる場所で行わ


れる若菜摘みを目にし、萌えいづる


大地の精といえる若菜を摘む乙女に


求婚します。このヒエロス・ガモス


=聖婚は、大地に豊かな稔りを約束


させる儀礼であると解釈することの


できる歌で万葉集は始まるのです。

明日よりは春菜採まむと標めし野に 

昨日も今日も雪は降りつつ 

       山部赤人『万葉集』

「標野(しめの)」禁区。朝廷により


しるしが付けられた場所。神の領域


若菜摘みが行われていた場所。

七草粥

七草囃子金沢の料亭「大友楼」

平安時代には中国の年中行事の人日


に作られる七種菜羹の影響から、七


種(ななくさ)の穀物の粥を食べる風


習があったようです。

七種には諸説がありますが、米・粟


・きび・ひえ・葟米・小豆・胡麻と


いったところ。

延喜式によれば、小正月の一月一五


日に七種粥を天皇に供え、一般の官


人には米に小豆を入れた御粥がふる


まわれたとあります。

その後、健康を願って七種類の食材


で作った粥を食べるこの風習は、正


月に若菜を摘む習わしと習合し、更


に中国から伝わった人日とも融合し


民間に根づいていったようです。

旬の生き生きした若菜を前日の野山


で摘み、七草の力をさらに引き出す


べく、七草囃子を唄いながら叩きま


した。

七草の種類には諸説があり、時代に


よって変わっていて、現在の形にな


ったのは比較的、近年のことと考え


られています。


七種や若菜の行事は、宮廷の公式儀


式というよりも後宮の行事で、儀式


化されたのは室町以後のことです。

そして江戸時代には五節供の一つと


して公式に定められ、人日は祝日と


なり、七草粥を食べる風習が一般の


人々にも定着して今日に至ります。


春を招く草と米。それだけの粥。

そのありがたさ。

年の始まりに 

真行寺君枝拝



#歳時記五節句

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