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  • KIMIÉ

今を歴史は語る




国家体制を破壊するアウトブレイク


初めから隠された真相は、

どこにあるのでしょうか。

先日、現総理大臣が「第三次大戦は

核戦争になると考えていたが、コロ

ナウイルス拡大こそ第三次世界大戦

だと認識している。」と官邸で面会

した田原総一郎記者に語ったという

ことですが、これは明らかに報道さ

れることを意図した発言でした。

死の舞踏

伝染性を持つ感染症の流行を疫病(は

やり病)と呼びますが、その歴史の中

で最も知られているのは、14世紀の

黒死病です。


メメント・モリ(死を忘るなかれ)、

という標語が巷に流布し、芸術にも

このテーマは大きな影響を与えまし

た。

ここに貼った動画は人文主義の傑作

ボッカッチョ著『デカメロン』です。

黒死病から逃れフィレンツェ郊外に

集った三人の紳士と七人の貴婦人が、

10日にわたり語り継ぐ形式の短編小

説集です。




さてこの黒死病によって封建領主が

多くの農民を苦役した時代は一気に

崩壊しました。

黒死病は人類が経験した中で、最も

犠牲者を出したパンデミックと推定

されています。

イタリアのシシリー島に持ち込まれ

て発生し北極圏にまで広がりました。

中世ヨーロッパで大流行し、人口は

半分近くまで減りました。


ペスト医師の防御服

そしてその後の社会に何がおこった

か。社会が一変したのです。

農民すなわちそれまでの労働人口の

激減によって少ない人口で生産性を

高める方法を産む布石がおかれ、こ

れがその後の産業革命へと繋がって

いったのです。

ですから謂わば資本主義は、黒死病

によって生まれたと考えられるので

す。

その産業革命では、結核が大流行し

ました。

結核菌は紀元前5000年頃の人骨や、

紀元前1000年頃のエジプトのミイラ

からも痕跡が認められていますが、

この産業革命のときのパンデミック

は、都市部の人口密集化が進んだこ

とによる結果でした。

不衛生な環境下で過酷な長時間労働

や慢性的な栄養失調が、結核を爆発

させたのです。

疫病を列挙するには、紙面が足りま

せんが第一次世界大戦中のスペイン

風邪やエイズも犠牲者数が非常に高

く、ウイルス感染死者数の上位に位

置します。

それ以上に天然痘は多くの死者をだ

しました。16世紀、アステカ帝国や

インカ帝国を侵略したコンキスタ

ドールは、免疫を持っていないイン

ディオにウイルスの付着した毛布を

おくり、征服に至ったのです。

わたしはこの疫病という言葉を思う

とき、脳裏に浮かぶのは、紀元前5

世紀の古代民主主義のアテナイです。

この事象を現代と比較して見つめて

みたいと思います。


あなたの脳裏に、現在の世界の覇権

のありようが古代から少しも変わっ

ていないことを映し出すはずです。

ペリクレス

疫病は、紀元前より戦時の勝敗を、

大きく左右してきました。

アテナイに黄金期を導いた政治家ペ

リクレスも、最期は伝染病の流行で

死亡しました。

戦史 トゥキュディデス

デロス同盟

アテナイを敗北に追い込んだ疫病の

状況は、トラキア(バルカン半島東南

部)の王家の末裔として生まれたアテ

ナイの歴史家・トゥキュディデスの

『戦史(ペロポネソス戦争の歴史)』が

今に伝えています。

 戦いという好ましからざる人間の

 行為は何を前提としているのか、

 戦いを余儀なくさせる人間の文明

 とは何を前提としているのか、

 何を基に何を目的に生じうるのか、

 どのように違った条件のもとに異

 なる形態をとりうるのか

トゥキュディデスは自らに問うて、

『戦史』をしたためました。

『戦史』最も古い写本 フィレンツェ

トゥキュディデス自身もペロポネソ

ス戦争に将軍として一時参加しまし

た。しかし失脚して20年の追放刑に

処され、スパルタの支配地に逗留し

たこともあるので、双方を客観的に

観察することができたのです。

またトゥキュディデス自身も疫病に

罹りましたが、アテナイに発生した

ときの業況をつぶさに記録していま

す。

前代未聞の規模の蔓延だったと綴ら

れています。


医者にもそれがなんであるか実態が

つかめないので、療治の効をあげる

ことができず、それのみか彼らは患

者に接する機会が最も多かったので、

自分たちがまず犠牲者になる危険に

晒された。

一説によると、疫病はエチオピアに

発生し、エジプトからリビア一帯に

広がって、さらにペルシア領土の大

部分をも侵した、といわれている。

アテナイの市街においては全く突然

に発生したので、また最初に感染し

たのはペイライエウス(アッティカ

地方の港湾都市。アテナイ中心部か

ら12km)の住民であったところから、

アテナイの巷ではペロポネソス勢が

貯水池に毒を入れたのかもしれぬ、

という噂さえ流れた。

やがて病害はペイライエウスからア

テナイ市街に及び、ここにいたって

死亡者の数はたちまち激増した。

トゥキュディデスの『戦史』は政治

家や将軍の演説を随所に配し、夥し

い資料を駆使し、多様な視点を盛り

込んで客観的で実証的に記されてい

ることから、「歴史学」の礎を築い

たとされています。

透徹した眼差しで古代地中海の姿を

生き生きと記し、西洋では多くの政

治家や軍人の座右の書となってきま

した。

ヘロドトスの迷信や伝説を典拠とす

る物語的叙述『歴史(ヒストリア)』

と対比されることが多いのですが、

トゥキュディデス(BC459-BC396)は

この本を書いた目的をこんなふうに

綴っています。

「わたしの記録からは、伝説的な要

 素が除かれているために、これを

 読んで面白いと思う人は少ないか

 もしれない。しかしながらやがて

 今後に展開する歴史も、人間性の

 導くところ再びかつての如き、つ

 まりそれと相似た過程を辿るであ

 ろうから、人々が出来事の真相を

 見極めようとするとき、私の歴史

 に価値を認めてくれればそれで充

 分である。」

ペロポネソス戦争の敗北でアテナイ

は覇権を失い、必然的にデロス同盟

は解体へと繋がりました。

デロス同盟とはギリシア諸ポリスが、

ペルシア帝国軍の再奇襲に備えて、

アテナイを盟主において結んだ同盟

でした。

BC478年、ギリシア諸都市国家(最

盛期には200のポリスが参加)の代表

者がデロス島に集まって正式に結成

されました。

内容としては、加盟している諸ポリ

スが軍艦や船を出し合って連合艦隊

を編成し、それができないポリスは

一定の納入金を、共同金庫に入れ、

管理は10人のアテナイ市民に委ねら

れました。



この共同金庫はギリシア世界の共通

の信仰の対象だったアポロン神殿の

あるデロス島に置かれ、同盟会議も

この島で開催されたのです。

盟主アテナイは、ほかの諸ポリスの

艦船を全部合わせた数以上の三段櫂

船を、アテナイ一国で保有していま

した。

その後、ペルシアの軍事的脅威が薄

れると、同盟国の合意とアテナイ市

民会議で可決され、金庫はアテナイ

に移されることになりました。

その理由としては、三段櫂船の運用

と維持が可能なピレウス港を、アテ

ナイが保有していたからです。

ピレウス港には、軍備工場の機能が

ありました。武器・弾薬など軍需品

の製造も戦艦の修理もできる設備も

整っていました。

また戦艦の漕ぎ手は、公務員として

雇用され、技術の練度も維持されて

いました。




ペルシアと和平が結ばれると三段櫂

船は、商船として利用されるように

なっていきました。

都市国家アテナイは、諸ポリスを海

賊から守り、環エーゲ海の経済と商

業の恩恵を与え、名実ともにエーゲ

海のポリスをまとめる立場となって

いったのです。

こうして当初の軍事同盟は、経済同

盟の意味合いが大きくなっていき、

エーゲ海に発展したマーケットが、

同盟国に戦後の経済成長を促しまし

た。

アテナイには資産家や実業家が集り

ました。発展と共に学問も盛んにな

り、ギリシア学問の中心地となって

いったのです。


ギリシア世界の頂点に立った都市国

家アテナイの繁栄は、強力な軍事力

によって築かれたのでした。

ペロポネソス戦争と衆愚政治

ペリクレスの時代にはアテナイは、

帝国に変貌していました。

同盟の都市国家には守備隊と監督官

が常駐し、自国の貨幣や度量衡が強

制され、裁判権も行使されました。

アテナイが諸ポリスを支配する機関

へと変化していったことで、当初は

同盟からの離脱は基本的にないこと

と定まっていましたが、反乱を起こ

すポリスも現れ、それに対して武力

による鎮圧が行われたり、制裁金が

科せられたりしました。

こうした状況の中に、ぺロポネソス

戦争は始まったのです。

これはペロポネソス同盟国対デロス

同盟国の戦いでした。

それは元々の覇権国家スパルタ(ラケ

ダイモン)と新興の覇権国アテナイの

戦いでした。

ペロポネソス同盟は、デロス同盟以

前の紀元前6世紀末に成立した同盟

です。

軍事主義体制を確立したスパルタを

盟主とし、全ペロポネソス半島(アル

ゴスを除く)を統合した攻守同盟でし

た。

アテナイ軍の2倍の重装歩兵を擁する

スパルタ軍は、陸から包囲し、アテ

ナイ勢は籠城して戦いました。

この途中、アテナイは悪疫の流行で

人口の3分の1とペリクレスを失う大

打撃を受けるのです。

ペリクレスの死後、アテナイは民主

主義の最大の欠点といわれる衆愚政

治に陥っていきます。

政治的扇動者の詭弁に誘導されて、

誤った意思決定を行い、誤った政策

執行に至るのが衆愚政治ですが、こ

れには有権者も含まれます。

判断力が不十分な市民による利益主

義の追求や他人任せの機会主義、あ

るいは恐怖からの逃避、困難や不快

の回避、意図的な無視も含まれるか

らです。

見せかけの正しさに誘導されたり、

場の空気を忖度してしまうことも社

会では往々にして見られる事象です。

また、人は集団の流行から外れるこ

とを嫌う傾向を持っています。

集団の抱える問題は、「不和」から

生じるのと同様に、「同意」からも

生まれる場合があるのです。

アテナイでは権力が少数に集中した

恐怖の支配政治すなわち寡頭制に一

時的にではありますが移行しました。

結局は人材の欠如から再び民主制に

戻ります。しかしすでに終期に陥っ

ていました。


アテナイは、同盟金庫を空にしても

派兵を続けました。

財源が底を尽き、同盟国に税金を課

すことになりましたが、アテナイだ

けは免税にします。

軍事的にも経済的にも同盟は、既に

形骸化していたのです。

BC431~BC404までの27年という長

期に及んだペロポネソス戦争は、ス

パルタの勝利で決着し、デロス同盟

の諸ポリスおよび植民地からアテナ

イ市民は、全員が強制退去させられ

ました。


スパルタ軍に包囲されたアテナイは

スパルタ軍撤退と引き換えにデロス

同盟の解体を公式に認めることで、

長期化した戦いに終止符が打たれた

のです。

穀物を輸入に頼りきっていたアテナ

イは輸入ルートをスパルタに完全に

押さえられてしまい、このことが、

決定的な敗北をもたらしました。

栄光のアテナイのギリシア統一の野

望はこうして打ち砕かれたのです。


さて、ターニングポイントはどこに

あったでしょうか。それは鑑みるに、

アテナイの人口の3割以上が死亡した

とされる疫病のその蔓延ではなかっ

たでしょうか。


そして最終的には生命を維持する食

料が絶たれたことが敗因となったの

です。



マルサス『人口論』



今回、疫病を見つめる中でわずかで

はありますが産業革命に触れました。

この機械によっておきた革命で、人

類の生活は別物に変化しました。

およそ700万年前に四足歩行から直

立二足歩行となり猿と別の道を歩き

はじめた人類の祖先は、自由になっ

た前足で道具を発明するに至りまし

た。そして遂に道具を機械に換える

術をも編み出したのです。


マルサス

その産業革命に沸く18世紀末のイギ

リスで、古典経済学者マルサスの著

した『人口論』を紹介して締め括り

たいと思います。

この書物の中に、学ばなければなら

ない大事が記されているからです。


マルサスは人口増加がこのまま進め

ば、近い将来、必ず食糧不足が起き

ることを予言しました。

当時の社会は、機械がもたらした工

業化で経済が著しく向上し発展を遂

げている真っ只中だったので、食糧

問題は容易に解決できると楽観視し

ていたのです。人口が増えれば、生

産と消費が増えるので、人口増加は

好ましいものと捉えられていました。



しかし、人口は抑制しない限り掛け

算(幾何級数的)で増加するのに対し、

食糧は足し算(算術級数的)でしか増え

ないことを示したのです。



近代中央集権国家成立の初期に、重

商主義は、人口を富の資源と考えま

した。

重商主義とはご存知のように、貿易

などを通じて貴金属や貨幣を蓄積す

ることにより、国富を増すことを目

指す経済思想や経済政策の総称で、

16世紀末から18世紀のヨーロッパで

支配的だった経済政策です。

世界経済の成長期にあって、保護貿

易の立場に立ち、輸出産業を育成し、

貿易差額によって国富を増大させよ

うとした近世国家の管理経済です。


しかしその後、重農学派の人々は、

農業のみが富を生産すると考え、人

口の増加をはかるには農業生産力の

発展を促すほかないとしました。


さらにその後、産業革命後のイギリ

スにおいて土地を追われ都市に流入

した多数の貧民の問題に対して、近

代社会組織の欠如に帰した空想的な

社会主義者に反対し、これまで議論

されてきた諸説を整理し体系化した

のが、マルサス『人口論』です。


幾何級数的に増加する人口が、算術

級数的な増加を示す生活資源、特に

食糧の限度に制約されるところに、

貧困と罪悪が生ずるという人口原理

は、古典派経済学の体系に取り入れ

られました。


人口がむやみに増大すれば飢餓、伝

染病の蔓延、戦争を免れないことを

伝えています。


その上、救貧法をも非難します。

その理由は、金銭が支給され食糧を

得られるけれども、食糧が底をつか

ないまで、生命の定理から生命体は

自己の複製を行います。生殖作用の

ことです。

これでは根本的な解決法を見出さな

いままに人口増加をきたして破綻に

追い込まれ社会は崩壊するからです。

けれども自己責任を問えない貧困者

には救貧の必要があり疾病者、障害

者にはその必要性を認めていました。

マルサスの主張では、はじめに土地

の耕作、次に製造業の発展、そして

外国貿易という順序による国富の実

現が唱えられたのです。



200年前マルサスは、何よりも第一

に農業によって食糧の充分な確保を

することこそが問題解決に至る答え

であり、また最大の課題であって、

工業はその後に力を注ぐのが順序で

あることを訴え、著しい勢いで加速

し続ける資本主義社会に警告を与え

たとみなします。



マルサス思想は、その後の農業革命

により十分な食糧供給が可能になっ

たとして退ける向きもあります。

しかし例えば化学肥料から健康被害

が及んでいる現状や畜産被害は見直

さなければならない重大な問題に直

面しています。

わたしは『人口論』を手放しで称賛

するものではありません。彼は優生

学に傾倒しました。それを受け入れ

はしません。

しかし人類が生存する限り人口問題

という容易ならぬ問いをわたしたち

は常に抱え、取り組んで行く必要が

あります。

人口問題はわたしたち一人一人の生

死の問題です。




未来に視線を注ぐとき、過去を見落

とすことが往々にしておこりますが、

常に過ぎた昔に教わる姿勢を怠って

はならないのは、言うまでもありま

せん。

歴史の中に記された答えとなる事実

の再発見を絶やさぬ必要があります。


何事も真善美に着目し、優れた面を

活かすことが、ただ今は特に地球を

襲う疫病の現状から抜け出す方策と

思惟します。

それは早急に鎮静化を助けるもので

はありません。

けれどもそれこそが、問題の根本を

解決する方法に有効です。

わたしたちはわたしたちの責任にお

いて社会を変える努力を一人一人が

担わなければならないタスクを負っ

ていると思索します。


参考文献

トゥキュディデス著『戦史』

マルサス著『人口論』

ブリタニカ国際大百科事典



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