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令和観想 - 張衡

最終更新: 2019年8月19日

令和・換骨奪胎


「帰田賦(きでんのふ)」『文選』



新元号、令和となって早2ヶ月が経


ちました。


5月のブログは『令和観照 - 白梅』


と題し「令和」出典の国書 万葉集


巻五 「梅の花 三十二首 序文」 を鑑


み、万葉の皇族・貴族が中国趣味に


どれほど興じていたか、それが平安


文化の最先端として日本流を生み出


していったか詳しく紐解きました。



しかし梅の花だけではありません。


序文を書いた人物には諸説あるよう


ですが、通説となっているのは大伴


旅人で、この序文は、晋の王羲之が


353年3月3日に名士や一族を名勝・


蘭亭に招き曲水の宴を開いたときの


詩編『蘭亭集』序文草稿『蘭亭序』


に霊感を得て記述したのでした。



王羲之の『蘭亭序』は、書道史上、


最も有名な書で酔って書いたといわ


れています。


心のままに人に見せることを意図せ


ずに作られていることから率意の書


と言われています。


『蘭亭序』の内容は、ブログの


『雛祭りと雛人形』で詳しく触れて


いるので、ここでは割愛します。




さて今回は「令和」出典の続きで、


張衡作『帰田賦』を鑑賞したいと


思います。



6世紀、梁の昭明太子編纂の詩文集

 

『文選(もんぜん)』巻十五 志 部に

張衡(ちょうこう)「帰田賦」があり

その句に、令和の文字を見ることが

できます。


「於是仲春月時気清」



ただ前回も申しましたがミメーシス


は諸藝術の形式で在り、人間本来の


性情なのです。


『礼記』の経解篇には「天子が命令


を発し人々が幸せになる、即ちこれ


を和と言う」との一説があります。


「発号出而民説、謂之



帰田賦にも『礼記』や『詩経』から


の影響があるのです。



こうしたことに対し、物真似だ写し


だと卑下するのが目的なのではあり


ません。


人類は、人類が創出する叡智を換骨


奪胎して、さらなる叡智を生み出し


ます。


私は原初へたどり着こうとしている


のですが、なぜかといえば、それは


自分のルーツを探すのと同じです。


どこから生まれどこへ向かって歩む


のか、私たちはその先にあるものを


発見する旅を続けています。


そのためには、根を見定める必要が


あると思うからです。



そして今回は令和出典の古典を辿り


一人の天才、それも驚愕する天文学


者にたどり着きました。


その人は今から1900年も前の後漢に


生きた張衡(ちょうこう)です。


張衡もまた学びの中で偉大な人物や


書物との邂逅を重ね、インスパイア


され自分のうちに落とし込み、さら


にそこから演繹して独自の創造へと


導いていったのです。



日本人である私たちは令和の御代に


何を創出するのかどのような未来を


招かねばいけないのかこの世に生を


受けた者の一人として、少しは考え


る必要がありそうです。




それでは「帰田賦」を味わう前に、


張衡がどのような人物だったか僅か


ながらも辿ってみたいと思います。




張衡(78〜139)は、後漢の文人で絵


画や賦の名品を残しましたが、政


治家であって、天文学者、発明家、


地理学者でもありました。



没落官僚の家に生まれ、父を早くに


亡くしたので祖父の元で育ちます。


その祖父は郡の長官でしたが清廉な


人柄だったので亡くなると家は貧し


くなりました。


それでも勉学に励み、17歳になると


長安、洛陽へ遊学しました。また、


太学(国立の中央大学)で文学を研究


たようです。


23歳のとき、南陽(河南省)太守の


主簿(帳簿,文書作成を司る秘書)に


求められ、故郷に戻りました。


この間に文学作品として名高い二京


賦(東京賦,西京賦)を書き上げていま


す。長安、洛陽の繁栄を描きながら


淫欲に耽り無知で堕落した官僚貴族


の生活を風刺しました。


34歳のとき、安帝の郎中(主君の側近

    ※

である侍郎のひとつ)として洛陽に出


仕しました。



この時代に『太玄経』に触れたこと


が数学と天文に興味を抱くきっかけ


となりました。


『太玄経』は前漢末の揚雄による


『易経』に似た書物で、易が陰陽の


二爻(こう)を6つ重ねた六十四卦な


のに対し、天地人の三才を4つ重ね


た八十一首から構成されます。



※侍郎

後漢以降の侍郎とは、尚書の属官で

始め郎中に任じられ、1年後に尚書

郎になり3年して侍郎になる。次第

に侍郎の重要度は増し、現在の内閣

次官に相当するようになった。


水力渾天儀

38歳頃、暦法・天文、祭祀や国家文


書の起草や典籍・歴史を司る最高官


職である太史令(国立天文台長)に就


きました。


職務の上でも自然科学と密接な立場


になります。


そして張衡は、力学の知識と歯車を


用い、世界で初めて水力で動く渾天


儀を発明しました。それは水時計と


しても使われました。


渾天儀

渾天(こんてん)儀とは天球儀のこと


です。


地平線およびそれに直角に交わる子


午線、天の赤道や黄道などを表す目


盛付各円環を組み合わせたもので、


赤道環や黄道環を回転させて、天体


の位置や運行を観測する装置です。




同時代、西洋ではクラウディオス・


プトレマイオスが天動説を唱えてい


ます。このプトレマイオスの権威は


1500年続き、コペルニクスも覆す


ことはできませんでした。


17世紀のケプラーに至るまで地動説


は実証されませんでした。




古代中国の宇宙観はと言うと蓋天説


と渾天説、宣夜説でした。



蓋天説は、中国最古の宇宙構造説で


丸く笠を広げたような形状の天が、


四角い地を覆っている天円地方(天は


円形、地は方形)で、のちに渾天説と


の是非を巡る論議のなかで、地の形


状も球面状とされるに至ります。



渾天説はと言うと、天は卵殻のよう


に球形で、地は卵黄のようにその内


部に位置し天は大きく地は小さい。


天の表面・裏面には水があり、天と


地は気に支えられて定立し、水に乗


り運行し、天の半分は地上を覆い、

             ※

半分は地下を囲んでいるため二十八


宿は半分が見え、半分が隠れて見え


ない。

二十八宿

天の両端には南極・北極の両極があ


り、天は極を軸として車の轂(こしき)


のようにぐるぐる回転し端がない。


天体はこの天に付随して日周運動を


していると考えられていました。


何れにしても天動説です。



二十八宿

天球を28のエリア(星宿)に不均等分

割したもの。またその区分の基準と

なった天の赤道付近の28の星座(中国

では星官・天官といった)のこと。

天文学・占星術で用いられた。

江戸時代には二十八宿を含む多くの

出版物が出され、当時は天文、暦、

風俗が一体になっていたことが多く

の古文書から読み取れる。

28という数字は、月の任意の恒星に

対する公転周期(恒星月)の27.32日に

由来すると考えられ、1日の間に月は

1つのエリアを通過すると仮定した。



宣夜説は、早くに廃れましたが、現


代に通じる非常に鋭い洞察を持った


2世紀の後漢で唱えられた無限宇宙説


です。


天は無限で形がないので、天体は天


にくっついているようなものではな


く、虚空で果てしない空間のなかに


浮かんでいて、どこにも繋がれてい


ない。


それ故に、それぞれの天体がそれぞ


れの気の作用によって遅速の異なる


動きをしているという説です。


地動儀(レプリカ)


張衡は渾天説の立場から、天文学書


『霊憲』『霊憲図』『渾天儀図注』


を著しました。


2500個の星々を記録し、月を球形と


論じ、月食の原理を正確に解釈し、


月の直径も計算し、太陽年を365日


と1/4と算出しました。


また数学書『算網論』を著し、円周


率を計算し、3.162という近似値を


導きますが、これはインド・アラビ


アより400年も早い解でした。


地動儀内部構造

張衡は一旦は別の官職になりますが


再び太子令を勤め132年、世界初の


地震計の地動儀(高さおよそ2m)を


作り上げました。


樽型の周りの東西南北・北西・北東


・南東・南西に8匹の龍が付いてい


ますが、その口には球を咥えていま


す。地震があると、その方向につい


ている龍の口が開いて、下のカエル


の口に球が落ちる仕組みになってい


ます。


ある日、地動儀は西方の地震を感知


しましたが、誰も揺れを感じなかっ


たので地動儀を疑う人がいました。


けれども数日後、西方で大地震が起


きていたことが分かり、人々を驚か


せました。地動儀は実に500㎞離れ


た地点の地震を感知することができ


ました。



張衡は世紀を超越した歴史に名を刻


む大天才でしたが、剛直な人柄で、


周りから疎まれて都を追われ、河間


国(河北省)の相(宰相)となりました。


しかしここでも官吏や豪族の不正を


厳しく取り締まったので排斥され、


それ故、辞職を奏上します。しかし


許されず、尚書として呼び戻されま


した。けれども翌年、病のため61年


の生涯を閉じたのです。




_________________




「帰田賦」は亡くなる前年、故郷に


戻ったときに詠んだ40句です。



官職を退き君主に捧げた身の残骸を


乞い受けて郷里に戻り、田畑を耕作


することを「帰田」と言います。


賦(ふ)とは、詩で韻文のことです。


漢詩が歌謡から生まれたと考えられ


るのに対し、賦はもとより朗誦され


たものと考えられています。



昨年5月のブログ『端午の節句』で


取り上げた『楚辞』に載る「漁父」


「離騒」は、漢代の賦の先駆です。


「離騒」に特徴的な形式や抒情性を


受け継いだものを前漢以降、特に辞


と呼びました。


「離騒」も編まれている『文選』は


春秋戦国時代から梁までの131名の


文学者の賦、詩、文章800余りを37


のジャンルに分類し、全30巻に収録


しています。

隋唐以前の代表的作品の包括的コレ

クションなので、中国古典研究には

欠かすことのできない選集です。


昭明太子自身による序文も六朝時代

の文学史論として高く評価されてい

ます。

「文選爛して、秀才半ばなり」と宋

の諺があるほどで、文選に精通すれ


ば科挙は半ば及第したも同じという


意味ですが俗謡まで生まれました。


科挙(官僚登用試験)では、詩文の創


作が重要視されたからです。


李白と並ぶ中国文学史上最大の詩人


で詩聖と呼ばれた杜甫も愛読し息子


に「熟精せよ文選の理」と、教戒の


言葉まで残しています。



日本でも上代に伝わり、日本文学の


進展にも重大な影響を与えました。


奈良時代には貴族の教養の必読書と


なり、この度の元号・令和にも見ら


れるように、万葉集などにも影響を


与えています。

          ※

『枕草子』に「文は文集・文選、は


かせの申文」と記され、『徒然草』


には「文は文選のあはれなる巻々」


と載せられていて、平安時代からお


よそ鎌倉時代まで知識人に読み継が


れた書物でした。

現在でも、文選に見られる用語が、

日本語の語彙としてたくさん活かさ

れています。


英雄,栄華,炎上,解散,禍福,家門,岩石,

器械,奇怪,行事,凶器,金銀,経営,傾城,

軽重,形骸,権威,賢人,光陰,後悔,功臣,

故郷,国家,国王,国土,国威,虎口,骨髄,

骨肉,紅粉,鶏鳴,夫婦,父子,天罰,天子,

天地,元気,学校,娯楽,万国,主人,貴賎,

感激,疲弊,

・・・など


佐藤喜代治『漢語漢字の研究』

明治書院

※文集(もんじゅう)は白氏文集の略称

唐の白居易の詩文集(824)。

75巻中71巻が現存



この古代の貴重な書物・文選のコレ


クションに張衡の帰田賦は載せられ


ています。


また文選の同じ部に「思玄賦」が載


せられています。帰田賦は退隠した


いという動機は自らの拙さだと述べ


たのに対し、「思玄賦」では志の高


さによるものだと記し、天地は無窮


で永遠だが、それに比べて人の世は


何と無原則であることか。しかし私


は、志を低くして、とりあえず認め


られようとは思わない。巧みな笑顔


で媚びへつらうようなやり方は願い


下げだと言い、折り合わないことな


どは、本当の憂いではない。


真に悲しいのは、多くの偽りが真実


を覆い隠してしまうことである、と


嘆く、700句に及ぶ大作です。



それでは最後になりました。


帰田賦を鑑賞し、令和の御代に生か


すべく、世にも稀な賢才の報われぬ


真誠な思いを汲み取り、今回は、お


別れをしたいと思います。




帰田賦


原文


遊都邑以永久、無明略以佐時。

徒臨川以羨魚、俟河清乎未期。

感蔡子之慷慨、從唐生以決疑。

諒天道之微昧、追漁父以同嬉。

超埃塵以遐逝、與世事乎長辭。

於是仲春月、時氣清。

原隰鬱茂、百草滋榮。

王雎鼓翼、倉庚哀鳴。

交頸頡頏、關關嚶嚶。

於焉逍遙、聊以娛情。

爾乃龍吟方澤、虎嘯山丘。

仰飛纖繳、俯釣長流。

觸矢而斃、貪餌吞鉤。

落雲間之逸禽、懸淵沉之鯊鰡。

於時曜靈俄景、繼以望舒。

極般遊之至樂、雖日夕而忘劬。

感老氏之遺誡、將回駕乎蓬廬。

彈五絃之妙指、詠周、孔之圖書。

揮翰墨以奮藻、陳三皇之軌模。

苟縱心於物外、安知榮辱之所如。




通釈


私は都に出てきてから、すでに永く


なるが、時の君主を助けるほどの優


れた政策を抱いていたわけでもなく


ひたすら川辺に立ち尽くして魚を欲


しがるような有様で、むなしく出世


の時機の到来を待っていた。


昔、蔡沢(秦の宰相)は身の不遇を嘆


き、人相見の唐挙に判断してもらっ


たというが、私も同じ気持ちだ。


しかし、まことに天道は微かで見定


め難いものである以上、いっそかの


漁夫を追って隠遁し、彼の楽しみを


見習おうと思う。塵のごとき俗界を


離れて遠く立ち去り、世間の雑事と


は永遠に別れることにしよう。


さて、仲春の佳い時節ともなれば、


気候は穏やか、大気は清々しい。


野原や湿地に植物は生い茂り、多く


の草が一面に花をつける。ミサゴは


羽ばたき、高麗鶯は悲しげに鳴く。


首をすり寄せて昇り降り、さまざま


な鳴き声を立てている。そんな中を


さまよっては、いささかなりとも我


が心を楽しませるのだ。かくして、


沢辺では龍の如く吟じ、山野では虎


の如く嘯(うそぶ)く。空高く射ぐる


みを飛ばし、大きな川に釣り糸を垂


れる。鳥は矢に当たって落ち、魚は


餌を貪って針にかかる。雲間に飛ぶ


鳥を射止め、淵の底に沈む魚を釣り


上げる。さるほどに日は傾き、月が


昇って来る。遊びまわって楽しみを


極め、夕暮れになっても疲れを知ら


なかった。老子が残した教えをふと


思い出し、狩りが人の心を狂わせる


という戒めに従って、我が家に車を


戻そうとした。帰ってからは、五弦


琴を巧みにつま弾き、周公と孔子の


経典を朗読した。筆を振るって詩文


を作り、三皇の教えを述べる。心は


外物から解き放つことができさえす


れば、この世の栄辱の行方など、関


知することではなくなるのだ。




帰田賦 通釈資料:

新釈漢文大系81明治書院

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