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宇宙は一粒の砂

最終更新: 1月24日



『無垢の予兆』


一粒の砂に世界を見

一輪の野の花に天界を見る

汝の掌に無窮をつかみ

一時の中に永遠を捉える


  ウィリアム・ブレイク




年明け、


クリシュナムルティと

デヴィッド・ボームの対話集


『時間の終焉』

(原題The Ending of Time)


        を読みました。




その冒頭は

「人間は進路を間違えたのだろうか」 と言うクリシュナムルティの問いで はじまります。 ボームは、それに答えて言いました。 「そうですね、大昔に人間は間違え たに違いないと思います。人間は五、 六千年ほど前、他人から略奪したり、 奴隷にしたりできるようになり始め、 その後はもっぱら搾取と略奪に明け 暮れてきました」





ジッドゥ・クリシュナムルティ

(1895年-1986年)

インドのバラモンの家系に生まれた

クリシュナムルティは、神秘主義的

思想家であり覚者でした。

14歳の時、神智学協会に弟と一緒に

見出されてヨーロッパへ赴き、英才

教育を受けました。

16歳になると、神智学協会第2代会

長アニー・べサント(ガンディー以前

のインドのリーダーシップを担った

元社会活動家)により、彼を長とする

東方星教団が設立されました。

ドイツ神智学協会のルドルフ・シュ

タイナーはこれに異を唱えて脱退し

人智学協会を設立します。

東方星教団は1929年にクリシュナム

ルティが解散を宣言するまで存続し

ました。

「真理に至る道は用意されていない。

信仰は純粋に個人の事柄であり、そ

れを組織することなどできない。」

と、すべての寄付を返却し、ひとり

の旅に出たのです。







デヴィッド・ジョーゼフ・ボーム (1917年-1992年) ユダヤ系アメリカ人のボームは、ア インシュタインと共にマンハッタン 計画に関与した理論物理学者です。 1959年、クリシュナムルティ著 『最初と最後の自由』に出会い、そ の惹句「観察者(私)は観察されるも の(非私)である」を目にして覚者と の接触を図りました。以後、二人は 生涯に渡って真理を求める会話を重 ねました。 両者は立場を超えて、人類の一員と しての深い危機意識と責任感を持っ ていました。



ボームが科学者として関わった仕事 には、核エネルギーの解放があり、 これは悪用による大量虐殺という問 題に連なりました。稀代の科学者は 深い責任感に駆られ、人間を破壊へ と追い込むものの正体を探求し始め たのは理の当然で、その途上でクリ シュナムルティに出会ったのです。 彼は例えば「シュレティンガーの猫」 など量子力学の原理的な問題となる 「観察」という観点から、クリシュ ナムルティに関心を寄せました。


量子力学の世界は不思議だらけです。

これまでの通念では測れません。

たとえば素粒子を含む量子は、粒で

あり、波であるという二重の性質を

持っています。

それは「二重スリット実験」という

実験から明らかです。

この実験中に、人なり機械なりいず

れであってもいいのですが、観測さ

れていれると、量子は、粒子として

ふるまい、観測されていないと波と

してふるまうのです。

「見られると粒になるが、見られて

いない時は波になっている」のです。

ミクロの世界の物質=量子の代表的

な電子は、スピン(回転)しています。

これに関しても常識から考えれば、

意味不明に思えるのですが、右左同

時に回転しているのです。

この量子が同時に2つの状態を持ち

合わせるこのことを「重ね合わせ状

態」といいます。

この重ね合わせ状態の電子が、なん

らかの原因により右回転と左回転の

2つに分かれ、別々の場所に飛んで

行ったとします。

するとこの2つの電子は、仮に何億

光年離れていようと元は一つだった

という情報を失うことはありません。

そして一方が右回転だと観察される

と、もう一方は左回転だと瞬時に分

かりますが、これを「量子のもつれ」

といいます。 これは光速を超えるので相対性理論

に反してしまいます。 この宇宙における現象は、離れた場

所にあっても相互に絡み合い影響し

合っているわけですが、この性質の

ことを、非局所系といいます。 ですから、宇宙からある部分だけを

取り出すことは不可能ということに

なります。 つまり全体を抜きにした「部分」で

は存在できないということです。

宇宙は分割不能であり、すべてを包

括した一つでしか成り立たないこと

が導き出されるのです。 これをもう少し紐解いてみます。       ※      ※ ボームには「内在秩序と外在秩序」 という、量子力学の存在論的理解の ために提唱した理論があります。 【内在秩序】 内包された秩序。内臓秩序。  現実のより深くより基本的な秩序。 【外在秩序】 顕現秩序。展開された目にするものの抽象概念。



開花は芽に内在する秩序

例えば、渦は流体の全体の流れの一 部として現れますが、渦を独立した 要素とみなすことでそのふるまいを 見ることができます。 しかし、「流れ」は流れの中に生滅 する渦よりも根源的です。 渦は全体の流れとはっきり区別され た境界を持つとはいえませんが、全 体と不可分です。 これは「流動する不可分の全体性」 といえます。


宇宙の海に渦巻く銀河


ボームはこれと同様なことが現在の 量子論でも起きていると考えました。






       ※

この説明としてホログラムを取り上 げ、内在秩序を特徴づけるものとし て主張しました。 ホログラムは、どんなに分割しても、 その分割の一つ一つの中に、全体の 情報が含まれています。

どの部分にも、3次元の像の全体の

情報が含まれているのです。

ホログラムの感光フィルムの各領域

には、像全体の構造が内包されてい

るのです。 ということは、何らかの理由で宇宙 全体が失われても、素粒子一粒が残 されていれば、宇宙を復元すること

が可能ということです。



ホログラフィー


ギリシア語

ὅλος (全体の) + γραφή (記録)


3次元像を記録した写真ホログラム

の製造技術。ホログラフィーは情報

の記録にも利用することができる。


現代のファンタスマゴリア


私たちの身体一つをとっても同様で 身体全体を考えずに、ある一部分だ けを治療することができると思って いるばかりか、犯罪、貧困、麻薬中 毒といった様々な社会問題も、社会 全体の問題を考えることなしに対処

できると思っていますが、世界を断

片に分けるという現在のやり方は、

うまくいかないどころか、私たちを

絶滅に導いてしまう可能性さえある

と、ボームは強く訴えています。 またこの稀有な科学者は、意識とは 物質のより精妙な一形態であり、こ の意識と物体のふたつの間にある関

係の基盤は、私たちの現実のレベル

ではなく、すべて深層の内在秩序に

あると考えました。

意識はすべての物質の中に存在する

とし、アクセスの方法さえわかれば、

自分の左親指の爪にアンドロメダ星

雲を見つけることができ、クレオパ

トラがシーザーに初めて会う場面を

見ることもできる、なぜなら原理的

には、時間と空間のほんの小さな領

域それぞれに、一切の過去と未来の

可能性が全部包み込まれているはず

だからです。

私たちの体の細胞ひとつひとつが全 宇宙を包み込んでいるのです。 木の葉一枚一枚も、雨の雫の一滴も 埃の一粒も同じであって、これは、 冒頭に記したウィリアム・ブレイク の詩に新たな意味を付加します。 複数の個人の意識の間に起こること のある説明不可能な繋がりにも、こ のホログラフィックな考えは解明の 光を当ててくれます。 こういう繋がりの最もよく知られて いる例はユングの集合的無意識です。 この提唱の基因となったユングの体 験のひとつは、1906年、妄想分裂病 の若い男性の幻覚にまつわるもので した。 ある日ユングが回診に出ると、青年 は窓のそばに立ち、自分の頭を横に 振る奇妙なしぐさをしながら太陽を 見つめていました。 何をしているのかと尋ねると、青年 は太陽の陰茎を見ているのだと答え ました。頭を横に振ると、太陽のそ

れが動き、風を起こすのだと言いま

した。 それから数年後、ユングは2000年前 のペルシアの教典の翻訳に出くわし ます。教典には、人にヴィジョンを もたらすために作られた一連の儀式 や祈願の言葉が書かれていました。

そして、あるヴィジョンを描写した ものの中に、太陽を見るとそこから ぶらさがる管が見え、その管が横に 動くと風が起きる、とあったのです。

青年がこの教典を見た可能性は非常 に低いことから、青年のヴィジョン は、彼自身の無意識の心の産物では なく、それよりも深いレベルにある 人類全体の集合的無意識から湧き上 がってきたものと結論を下しました。 ユングはこのようなイメージを元型 (アーキタイプ)と呼び、その起源は

太古の昔に遡り、私たち一人ひとり

の無意識の深みに、200万歳の人間

の記憶が潜んでいるようなものだと

考えたのです。 ボームの端的な言葉を用いるなら、 「深層では、人類の意識はひとつな のである」ということです。

『時間の終焉』には、クリシュナム ルティとボームという世紀を超越し

た二人の哲人が、自己の解放すなわ

ち心理的時間からの解放に到達する

方法を、英知を傾けて行った13回に

及ぶ長大な対談が納められています。 『時間の終焉』の訳者渡辺充氏の言 葉を借りるなら、過去の或は過去か らの伝統、習慣、掟などに基づき、 或はそれらを受け継ぎながら漠然と した或は、はっきりした希望や期待 や不安や恐怖を抱えながら、現在を 素通りして未来へと「何かになるた めの道」を辿っている私たちの人生 を包み込み縛っている「枠」、それ がここで語られる時間で、それは、 「心理的」時間であると解説してい

ます。 私たちの個人的な苦悩、暴力性、社 会的な問題、戦争、環境破壊、人類 危機といったものが、どこから生じ ているのか、またそれらを解決する ことは可能か?そして結局、私たち はどこから来てどこへ行くのか?

この人類史的、普遍的問題が解決不 可能だとすれば、個人的な問題とし ては、私は何か訳が分からずに生み 出され、四苦八苦した挙げ句の果て に、訳が分からずに死んでいくとい うことになります。それでは酷すぎ ます。 クリシュナムルティは、その解決は 可能だと示唆しました。 しかしそれはやもすれば、神だとか 仏だとかを実体化し、依存し、幻想 の中に生きていくことになりかねま せん。そこで素朴にアプローチしな ければならないわけです。 そこでまず、時間というものを紐解

くことから、はじめましょう。 今あなたはこの文章を読んでいます。 よく見てみれば「今、ここ」しかな いのですが、それは長続きせず直ぐ に過去の悔恨と未来への不安にかき 消されしまいます。 「今、ここ」で生きることができれ ば、それはまさしく時間の終焉です。 しかしながら時間の中で生まれ時間 の中で死んでゆく。人は自分の存在 の基底であり根底を時間に置き換え てきました。時間が母で、自分が子

供となってしまったのです。 そこで時間の中で運動する主体を妄 想するようになり、ありとあらゆる 厄介ごとを抱えることになりました。 その最たるものが生と死です。 時間というのは物の運動から抽象さ れたものなのですが、それを実体だ と思い込んでしまったのです。 誰も、数字の1とか2を実体と思わな いのですが、時間については、実体 だと思い込んでしまったのです。 そのため、時間が自己の外にあると 思い、自己の外に実体を作り、客観 的な時間というものがあると錯覚し て、人は心理的な安定を求めるよう になりました。 例えば、一見すると物質的な安定を 求めているように見える場合でも、 実は、心理的な安定を求めているの です。

食べ物がないから、物質的な安定を

求めているのではなく、食べ物がな

いので、心理的に不安定になったの

です。食べ物を求めるのは、心理的

な安定が欲しいからです。 一方、未来はいつも保証されません。 だから、この不安には歯止めがきき ません。 同様なことが内面に向かうと、自分 に対する不安が生まれ、それが心理 的な不安定を呼び、それをなんとか 克服しようとし、自分が自分を変え ようとします。 こうして変える主体と、変えられる 主体を作り、自己が二つに分けられ それに執着して災いの元を作り出し ます。 つまり時間を自分の外に出したせい で、自分が時間の中にいて、そこを 旅しているように感じるのです。 すると単なる経験が「私の」経験と なり、単なる経験からの想像である 未来が、「私の」未来となります。 こうして過去と未来が重要になり、 時間に圧迫されることになってし まったのです。 その圧迫から逃れるためにますます 未来という時間に依存し、そのため ますます苦しくなるという悪循環に 陥るのです。 人は技術を向上させて暮らしを豊か にすると、こうありたい自分、なり たい自分、というように自己におい ても向上させようと思い始めました。 そのように「なりゆく」とき、そこ には葛藤が生じます。そこには絶え ず闘いが生まれます。 「あるがまま」と「あるべきものに なりゆくこと」のこの二つが生じ、 この二つの間に区別をつけて、辻褄 の合わない問題を生じさせているの です。 ややこしい物言いを綴りましたが、 要するに、なること・成るプロセス は、すなわちそれは‘becoming’なの

で、時間に取り込まれ精神の自由を

束縛された時間の枠に縛られた状態

に陥っているのです。 この二元性は、評価づけ、判断し、 非難し、比較をします。これは過去 のイメージがもたらすものです。


干渉なく内的、外的にものごとを、 まさに有るとおりに「洞察」するこ

とのみが、気づきであり、このとき

時間は終焉します。 私には座禅の経験は一度しかありま せんが、それは何も考えず、雑念を 払う時間を体験する行為です。 そして無、空の境地への到達を目的 とします。 「心理的時間」の終焉はエネルギー が充満した宇宙の根源、すなわち無 であり空であり、宇宙の秩序と一体 化した非私(not-me)であるときに突 如として訪れます。 人かどの人間(somebody)になろうと するのではなく、自分を浄化し、あ るがままの誰でもない人間、無一物 (nobody)になるとき、そこに時間か らの解放が、すなわち不死があるの です。


熊谷守一



宇宙の一部である私自身は素粒子の

集合体となって生まれました。

そして死は私を宇宙に還元し、私は

素粒子となって無に帰します。

ルクレティウス『事物の本性につい て』によれば、この宇宙に存在する ものは、それ以上にも以下にも増え もせず減りも滅しもしないというこ とです。なぜなら、この宇宙の中で すべてが納まり完結しなければ、宇

宙に替わるどこかがなければならな

いからです。 パラレルワールドがあったとしても、 それは別の宇宙で「宇宙」に変わり ありません。 時間の終焉を迎えるとき、あなたは 非私になるとも、無私になるとも言 えますが、それは一如とも言えます。 そうしますとそれは永遠性を備える という矛盾をも生じさせるのですが、

そこで不生不滅という、コンジャン

クションがおこります。 これは仏教の真如でもあり、般若心 経の「諸法空相 不生不滅」でもあり さらに遡ればウパニシャッドへ到達

しますが、紀元前6世紀のギリシア

では、エレア派の祖(先駆クセノファ

ネス)で、プラトンに多大な影響を

与えたパルメニデスにも見出せます。 時間の終焉且つ永遠をソクラテスに

私淑する私は、「愛」と定義します。 なぜそれが愛なのか?

その愛とは何ものか、その奥義を、 プラトン哲学で最も華やかで楽しい 『饗宴 ー エロースについて』から 見出したいと思いますが、まずは、 パルメニデスの哲学詩に至るまでの

ギリシア世界をざっと眺めることか

ら始めたいと思います。 パルメニデスは、それまでの自然哲

学者らが、万物の構成要素と考えた

原理となる質量を突き動かすエネル

ギーとして、愛(エロース)を導入し

た哲人なのですから。 KIMIÉ


参考文献 時間の終焉  J・クリシュナムルティ& デヴィッド・ボーム対談集 コスモス・ライブラリー 投影された宇宙 ホログラフィック・ユニバースへ の招待 マイケル・タルボット著 春秋社

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