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端午の節句

最終更新: 2019年1月4日



子供の頃、毎年、祖母に連れられて


明治神宮の菖蒲園に行きました。

5歳で亡くした息子を偲んでいたの


です。我が家では月命日には伯父の


好物だった稲荷寿司を供えます。


さて端午の節句には粽(ちまき)を食


べますが、これは屈原の弔として始


まったのだそうです。

私の脳裏に浮かぶ屈原は横山大観の

日本画ですが、これは師である岡倉


天心が東京美術学校を罷免され辞職


した姿と重ね合わせて、描かれたと


いわれています。

屈原(前343年頃〜前278年5月5日頃)

王族の家系に生まれた戦国時代の楚


の詩人。南方の大国であった楚(そ)


の懐王の信任を得て内政外交の両面


で腕を振るっていました。屈原は、


法令の原案も任されていましたが、


ある同僚が草案を現状のまま提出す


るよう促したのです。しかし剛直で


妥協のない屈原はこれを拒みそれが


一因となって才能を妬む者から傲っ


いると讒言されて、朝廷から遠ざけ


られてしまったのです。

また秦が諸国を勢力下に取りこもう


と遊説家の張儀をおくって連合をも


ちかけてきたとき、屈原は秦よりも


斉の国と結ぶべきと強く主張しまし


た。秦の策略を見抜いていた屈原は


踊らされようとしている懐王を度々


諫めますが、聞き入れてはもらえま


せんでした。

懐王はその後も張儀の謀略に引きず


り回され、最後には秦に幽閉された


まま死去します。懐王が戦国時代の


暗君の代名詞にされたのには、こう


した背景がありました。

屈原は国運の回復に力を尽くします


が主都陥落の知らせを聞いて絶望し


汨羅(べきら)の淵に投身しました。

屈原の憂憤憂国の思いを吐露した長


詩「離騒(りそう)」は『楚辞(そじ)』


に収められています。

北方の『詩経(中国最古の詩篇)』に


対しての南方の『楚辞』であり共に


後代の李白や杜甫を代表とする漢詩


源流の一つとなりました。

不朽の名作とされる「離騒」は


375句 第十六段まであるので全てを


記すことはできませんが最初の段を


平坦な言葉で読み下し、詩の奏でる


夢幻的雰囲気の一端を味わっていた


だければと思います。

『離騒(憂いつらねる)』

第一段

私はかの名高い

高陽帝(顓頊 せんぎょく)の子孫


亡き父の名は伯庸という。寅年の寅


の月、新春の庚寅(かのえとら)の日


に生まれた。父はこの生まれ合わせ


から目出度い名を戴いた。私の名は


正しく生きる正則と言い、国を治め

るほどの人になれと、字(あざな)は


霊均という。生まれながらに正しい


性質と善い才能を備えている。

香しい草を身に纏い秋蘭を帯にして


薫り高く装う。

汨羅江(べきらこう)の流れに置き去


られるかのように歳月が急いでも私


の成長を待ってくれないのでは、と


恐れた。朝には岡の木蘭を摘み夕べ


には中洲の香草を採り身を潔く保っ


て待っているのだが、月日は忽ちに


流れて留まらず、春が去ればまた直


ぐに秋が訪れる。草木の枯れ落ちる


のを思い、麗しい君主も朽ちるのを


恐れた。


屈原は人生で二度放逐されました。


「離騒」は旧説では、30歳前後で

流謫(るたく)の身となったときに作


られたとされていましたが現在では


入水時と見るのが通説のようです。


何にしても最終段に至っても悲壮感


が微塵もなく、この世の執着を断ち


切り希望を抱いて新天地・神の国へ


旅立つ描写に感嘆します。なぜかと


いえば衣服に石を詰め体が浮かんで


こないように整えた痛ましい壮絶な

自死と結びつかなかいからで、天空


から遥かに見下ろす故郷への愛着に


心が揺さぶられます。しかし屈原は


未練を切り捨てる決意に達すると、


光明に導かれ新世界での新たなよき


出会いに希望を繋ぐ潔い出立を遂げ


るのです。



さて、今日は屈原に由来する端午の


節句に粽(ちまき)を食べる習慣を、


お話をしたいと思います。

背くらべ  

作詞・海野厚 作曲・中山晋平

柱の傷はおととしの 

五月五日の背くらべ

ちまき食べ食べ兄さんが

測ってくれた背の丈

きのうくらべりゃなんのこと 

やっと羽織の紐の丈

上に記した学校唱歌は日本人の誰も


が知る名曲ですが端午の節句は元は


中国の行事でした。それが朝鮮や日


本にも伝わり祭礼を催すようになり


ました。

追放された屈原は湘江(しょうこう)


の淵や岸を彷徨い、沢の辺りで歌を


口ずさんでいると窶れて衰えた屈原


に驚いた老漁師が尋ねました。

「三閭大夫(さんりょたいふ)様では


ごいませんか。どうしてそのような


落魄された姿になってしまわれたの


ですか。」

それに答えて屈原は言いました。

「世の中の人々すべての心が濁って


いる中で私だけが清廉で、皆が酔っ


ている中で私だけが醒めている。だ


から追放されたのです。」

漁師は言いました。

「聖人というものは物事に拘らず、


世の中と一緒に移り変わるものでは


ないですか。世の人々の心が濁って


いるのならば、どうして一緒にその


泥をかき混ぜ波を立てないのです。


人々が酔っているならどうしてその

酒かすを口にし、薄酒を飲もうとし


ないのです。どうして深刻に悩み、


清廉潔白を誇示し、ご自分から追放


されることをなさったのですか。」

屈原は答えました。

「私はこういうことを聞いたことが


ある。髪を洗ったばかりの者は冠に


ついた汚れを必ずを払い、入浴した


ばかりの者は、必ず衣服のほこりを


篩って払うと。どうして汚れを知ら


ない身に世俗の汚れを受け入れるこ


とができようか。厭できぬ。むしろ


湘江の魚の腹に葬られようとも、ど


うして世俗の埃に塗れることができ


よう。」

漁師は笑みを浮かべ、船の縁を櫂で


叩いて漕ぎ去りながら歌いました。

「滄浪(そうろう)の水が澄んでいるな


ら冠の紐を洗おう。濁っているなら

足を洗おう。」

そのまま去って、二度と二人が語り


合うことはありませんでした。


後世の人が作った有名な『漁夫の


辞』です。この歌には、心の奥底に


潜むもう一人の屈原の象徴として、


漁夫が描き出されているのかもしれ

ません。

屈原は臣民として、王の前に大義を


明らかにすることを、何よりも尊び


ました。それは孔子が国家を治める


手段として、君臣父子の名分を正す


ことを重視して始まった理念です。

儒学は正名論が盛んでしたが屈原は


この孔子的な儒教思想の権化であり


一方の漁夫は老荘思想的な道家の表


れともいえます。

老子は楚の人だったことからも当時


の国土には、柔軟なとらわれのない


処世が浸透していて、その思想観を


漁夫に見てとることができます。

それから暫くして屈原の予言通り秦


の襲撃の前に楚の都は陥落します。

これを知った屈原は絶望し


紀元前278年5月5日、泪羅江に身を


投げたのでした。


前置きが長くなりましたが粽の話は


ここからです。



楚の民は小舟で川に行き、太鼓を打


つ音で魚をおどし、屈原の体を魚が


食べないように竹筒に米を入れて撒


きました。人々はこの愛国の詩人の


死を悼み、この日を端午の節供と名


づけたと伝えられています。

中国江南地方ではこの日、舟漕ぎ競


争をします。これは入水した屈原を


救うために船が出されたことに由来


し、舳先に龍の首飾りをつけた船の

競技が生まれ、中国の年中行事とな


りました。

毎年、祥月命日の5月5日に供養とし


て投げ込まれていた竹筒の米が粽に


変わったその訳を伝えているのは、


6世紀に成立した

『続斉諧記(ぞくせいかいき)』で、

次のような話が載せられています。

後漢の建武年間(1世紀前半)のこと

長沙(汨羅下流の東岸)に暮らす欧回


という男が白昼に、見知らぬ貴人と


出会いました。

その人は「三閭大夫(教育係)なり」


と名乗りました。

「そなたがいつも私を祀ってくれる


のは有難い。だが供物はいつも


蛟(みずち)に奪われてしまうので、


厄除けに楝(せんだん)の木の葉で包


み、五色の糸で縛ってくれまいか。


蛟はこれを嫌うのだから」と言いま


した。

これを聞いた欧回はそれ以降、教え


通りに供物を作って捧げるようにな


りました。

これが粽の起源といわれています。


ちなみに柏餅は日本独自のもので、


柏の葉は新芽が育つまでは古い葉が


落ちないことから家系が途切れない


子孫繁栄の縁起を担いで江戸の町で


生まれたそうです。

五色 (正色:青赤黄白黒)の糸は中国


古来の宇宙観・五行説に基づいてい


ます。「木火土金水」という五原素


・元の氣によってあらゆる自然現象


社会現象を解釈しました。

邪気を払う五色は鯉のぼりの吹流し


や薬玉などにも用いられるようにな


りました。日本で五色の糸は、念仏


信者が臨終の際に阿弥陀像の手から


自分の手へ掛け渡す五色の糸を指し


阿弥陀仏に導かれて極楽往生できる


といわれています。


屈原と老漁師の話が載った


『続斉諧記』は志怪です。志怪とは


不可思議な怪を志 (=誌)した短編集


のことです。

志怪という言葉は『荘子(逍遥編)』


に見られる言葉で、志怪には怪奇な


出来事や超現実的な霊威の働きなど


が記録され、歴史や社会に影響を残


しました。

志怪小説は


六朝時代(3世紀初頭〜6世紀末)に大

流行し仏教説話、道教説話、民間伝


説などさまざまな説話を含み、実際


にあったと伝えられている事件その


ものを記しています。

当時の知識人の対話から珍しい話を


集めて成立したと考えられていて、


作者(記録者)も真偽に諸説があるよ

    ※

うですが著名な歴史家、学者、文学


者、帝王まで一流の知識人が含まれ


ています。初めは歴史書の一部とし


て捉えられていたようで小説の位置


付けとなるのはその後です。

中国小説の源流で、直接的には次の


唐代の伝奇小説に繋がると共に、含


まれている説話は後世の小説や戯曲


に多くの素材を提供しました。

志怪小説が発生の背景には、竹林の


七賢に象徴される知識階級の人々が


集って論議する清談の風潮がありま


した。宇宙の神秘や人間存在の根源


といった哲学的議論の話題の一つと


して奇怪な出来事も、一つの例証と


して提供されたのです。

また当時は輪廻転生の物語や仙人や


道士の術の話題が広がっていたので


さほど違和感なく受け入れられる下


地があり、仏教や道教の信者は志怪


小説の形式で書物を作りました。

さて、端午の節句には、軒に菖蒲や


蓬を挿したり菖蒲湯に入ったり、粽


や柏餅を食べ邪気を祓いますが、我


が家にも懐かしい思い出があって、


嵐山の吉兆での子供の日の祝いが、


つい昨日のことのように思い出され


ます。半纏をまとった料亭の男性が


一時間おきに庭に現れ、露台の軒に

並べられた菖蒲に柄杓で水をかけて


いました。それは古風な芸術的空間


として映え、風情が活かされて感心


した覚えがあります。

日本では、菖蒲や蓬で軒を葺いたの


には、田植えを控えた女性が禊して


家にこもる五月忌み(さつきいみ)の


風習から始まったとされています。


菖蒲はその形と芳香から邪気を払う


呪物とされていたのです。水剣草の


別名もあるように葉が剣に似ている

のでこれを門に挿し、蓬(よもぎ)を


鞭に見立てて悪鬼を撃つのです。

これを蒲剣蓬鞭(ほけんほうべん)と


称しました。


旧暦5月は高温多湿の盛夏で伝染病


や毒虫の害が甚だしく、悪月とされ


ていたのです。

端午にはまた、菖蒲の根を刻んだも


のを酒に浸して飲む風習が宋代から


あって、これを菖蒲酒といいます。

菖蒲湯は家庭的な風習で、茎を笛に


して湯船で戯れるのですが口に咥え


ると強い清涼感溢れる芳香と菖蒲笛


の高い音色で禊され、気持ちも体も


清まる心地がします。


  太田美術記念館蔵作 歌川国貞

男児のいる家では近世以降、鯉こい


のぼりや吹き流しを立て甲冑や武者


人形を飾って祝います。日本では、


こどもの日として国民の祝日になっ


ていますが、奈良時代には薬玉を天


皇から受け賜る宮中行事が催されて


いました。


武家が中心となる鎌倉時代頃からは

菖蒲が尚武と同じ読みであることか


ら端午は男子の節句とされるように


なり男の子の身を守り健康な成長を


祈って祝うようになりました。鎧、


兜、刀、武者人形、金太郎などを模


した五月人形を室内に飾ります。

庭前に鯉のぼりを立てるのは、江戸


時代に関東の風習として始まったと


いわれています。これは中国の故事


鯉の滝登りに因んでおり男子の立身


出世を祈願するものです。

中国文化が日本に与えた影響は計り


知れません。既に中国文化と意識せ


ず日本の伝統に根を下ろしたものは


数え切れません。明治以降は欧米化


が進みさらに多くの文化が根付きま


した。日本が異国文化を巧みに消化


しながらぶれない歩みを遂げるには


先人達が残した古心を受け継いで、


私たちも次の世代に受け渡していく


暮らしが大切と思います。

※『捜神記』干宝

  (牡丹灯籠の元も集録)

『博物志』張華

 (七夕伝説も集録され本書初見)

『続捜神記』陶潜 (陶淵明)

『列異伝』曹丕 (文帝)

#楚辞 #端午の節句 #屈原 #志怪 #漁夫の辞

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